川合治義つれづれのブログpart2

関市の市民活動家の日々

小牧山城にて

本城山くっきり!?

 昨日の富野地域委員会での本城山登山のときに、関南アルプスの切れ込みにぼんやり見えた小牧山城へ恵子さんと行ってきました。緊急事態宣言下でお城の中の博物館へは立ち入れませんでしたが、15人のボランティアガイドのお一人に30分ほど解説して頂く幸運に恵まれました。

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昨日の本城山、頂上は伐採によって向こうが透けて見えます。

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関市西神野の県道から八神不動様のほうへ入ったところからパチリ。

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清州城から小牧山城に移った信長はたった4年でそれを捨て、岐阜城へ移りました。

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 犬山の成田山の奥に坂祝町勝山の猿啄城(写真の左端、手前と奥)。 犬山城を落とし、鵜沼の伊木山に入った信長軍は東美濃(加茂)侵略の手始めにこの城を落としました。次が蜂屋の堂洞城でした。猿啄城の山を右へ下り、平坦になったところの奥に加治田城の山が見えます。

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 西に伊吹山が見えます。その西のふもとには京に通じる関ヶ原があります。小牧山城は秀吉も家康も立ち入りました。三英傑がみなこの山から上に並べた景色を見たのです。そして『天下』を夢見ました。

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小牧市役所の駐車場に失礼して駐車。

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天守のある本曲輪の隅に立てられた案内、二つ目の説明が興味深いです。

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 市の小牧山の指揮の下、二チームが石垣の遺構を発掘中、こちらは小さいグループです。東の斜面では15人ほどの作業員が発掘中でした。

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 発掘の成果は写真パネルだけでなくジオラマ式に展示されています。これは日本の城郭史上初めて積まれた石垣の一部です。岐阜城でも斉藤道三時代の石垣が脚光を浴びていますが、この石組は、洪水のたびに水浸しになった清州城の防水用に考えられたものです。

 小牧山城岐阜城安土城と石垣の組み方は清州城がルーツなのだと聞きました。山県市の大桑城の石組は北陸の朝倉氏の工法だそうで、似て非なるものということになります。本城山の石垣はどうも朝倉氏系のようです。

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 この方が親切に説明して下さったボランティアガイドさんです。後ろの階段に座って手持無沙汰の様子だったので声を掛けました。『中に入れないので残念ですが、自分の地域にある城跡の山が見えたので良かったです。』というと身を乗り出してきて『そんな城跡があるんですか!』ということで30分の案内となったわけです。有り難うございました。

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 本丸から去ろうと階段に差し掛かったら追いかけてきて、尾張徳川家19代の殿様の説明を追加して下さいました。姿はマレーシアでの虎狩のときのもの、スイスでの経験を活かして北海道に熊の木彫りを導入して、デザインを鮭を咥えたものにしたこと、社会党から愛知県知事選挙に立候補して落選したこと、徳川美術館を作って敗戦による文化遺産の強奪を防いだこと、、などこれも興味深いお話でした。

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 右手の巨石は小牧山(チャート)では出てこない別の山から出る御影石(火成岩)だそうです。比高差60mのこの山頂へどうやって持ち上げたのか不思議?後に家康がそれをかち割って名古屋城へ持って行こうとした証拠が割られた向こう側の石のクサビ穴だそうです。

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書物やパネルだけではなく、ガイドさんの説明は本当に面白い上によく分かります。

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