川合治義つれづれのブログpart2

関市の市民活動家の日々

4人の少女

白鳥塚古墳

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 結婚して数年住んだ千種区猪高町大字猪子石字下竹越から関市の実家へは守山区を北上して、庄内川土岐川)沿いに多治見へ来て、美濃加茂へと抜けるのがお気に入りでした。まだそのころは定光寺に料金所があって、100円くらいを払っていたものでしたが、よく整備された川沿いの数キロはドライブウエーのようで快適でした。

 

 竹越の木造アパートの2階からは矢田川の流れが見え、その北側には視界を遮るものがほとんどありませんでした。3戸の棟割長屋でしたが、どう見ても似つかわしくない家族が住んでいました。竹越の西側に在った紡績工場の人事部長だったというご主人と奥さん、二人の息子さんがいました。親しくなった頃に奥さんに聞きました。『なぜこんな安長屋に住んでおらっしゃるのですか?』

 

 『教育のためです。土地はあり、家も建てることにしてありますが、下の息子が大学に受かるまではここに住むつもりです。』いつもの軽率さで悪いことを聞いちゃった、と思いましたが、むしろ誇らしげに話して下さいました。その時初めてお兄ちゃんが名古屋大学の工学部へ通っており、弟さんもそこを目指して千種高校へ通っているので、今引っ越すと通学と勉強に差支えがある、というわけでした。賢そうな兄弟だとは見ていましたが、やっぱりな、と思ったものでした。

 

 翌年の春に弟さんが合格し、初夏には引っ越しとなりました。いろいろお手伝いしてあげると『川合さん、新しい家を見て頂きたいので付いてきてください。』と言って招待してくれました。こういう時は断るのが礼儀なのかも知れませんが、言葉を額面通り真に受けるのが私の性分です。なんと国鉄中央線の高蔵寺駅の対岸、名古屋市の北の端です。ここから名東区の一社の千種高校へ通うのは長屋に比べたら負担です。

 

 驚いたことに素晴らしく大きな邸宅でした。子供の受験のためにぼろ長屋に住んでいる、という説明は本当だったのです。疑ってはいませんでしたが、こんな屋敷を新築するほどお金持ちだったとは思いもよりませんでした。昼に寿司も取って頂きました。街に住む人はそこまで自分の次の世代のことを考えて人生を設計しているのかと、今でも感心します。

 

 このお屋敷の近くに愛知県立大学看護学部があります。以前は県立看護短期大学と云いましたが、当時は愛知県一の看護婦(看護師)養成機関でした。唯一の欠点は病院がないこと、看護実習には国鉄名古屋市周辺の病院へ通って行かなくてはなりません。

 

 そしてもうひとつ、白鳥塚古墳があります。名古屋市最高峰の東谷山のふもとです

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 件のお屋敷はもちろんこの絵地図の中に入っています。昨日も通りすがりに見かけました、息子さんの別棟でさえすでに年季が入っていました。

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往時とは比べようのないほど整備されていました。写真は後円部の饅頭型の小山で、パネルの説明では石英が敷き詰められて白く輝いていたとか。

 

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 英語、中国語、韓国語も併記されたパネル。韓国の遺跡では日本語が削除されつつあると聞くと悲しいです。

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 熱中症を恐れて草刈りに出られないので、つれづれなるままにブログを書き綴ります。名古屋市の北東部は割と知っているところが多いので、車で走り回っていると、20歳代の記憶が蘇ってきます。

 

 結婚してから盆やお正月などに恵子さんと二人で藤谷の実家にお邪魔して、姉たちを煩わせ、親せきの伯父や叔母と交流していました。いつも、やはりこの土岐川沿いの愛岐道路を通りました。距離的には新川中橋まで矢田川の堤防を走り、41号を北上したほうが近くて早いのですが、沿道の風景は比べようもありませんでした。

 

 昨日大幸町4丁目、砂田橋交差点から宮前橋を守山に渡り、龍泉寺、吉根、志段味から瀬戸市をかすめて、JRの定光寺を過ぎたあたりで思い出したこと。対岸を走るJRの線路は、かつての短いトンネルを捨ててより深い長いものに切り替わっています。でも愛岐道路のこの辺りで40年ほど前に経験したことも書き残しておきます。

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 お盆の帰省で恵子さんと多治見に向かって走っていました。現在と違って、有料道路だったこともあってか、道路の整備が実によくされていたので対岸がよく見えました。『あれ、女の子がいるゾ!定光寺駅から1km以上上流です。橋はないはずなのに、なんで対岸にいるんだ?少し広めのところにサニーを止めて、4人の小学生らしき少女たちに『お~い、どうかしたの?』と大声で叫びましたが、相手が何を言っているか聞こえません。みんな泣いている様子です。

 

 そばへ行ってみることにしました。恵子さんはサニーに残して。道路を支えるコンクリートの擁壁が急で河原へ下りることができません。沢水を潜らせるための集水枡がありました、下りてみると腰をかがめて通れるコンクリートのトンネルがあります。そこを抜けて川原に下りました。

 

 水際まで行って『どうしたの?』『道に迷ったんです。この山を下りて来たんだけど川を渡れないので困っていました。』とみんな泣いています。浅そうなところを渡って4人の少女のところにたどり着きました。春日井市の小学校6年生の仲良しで、定光寺にハイキングに来た。山道で迷ってしまって、低い方へ下りてきたら川があったけれど渡れなかった、ということでした。

 

 今なら携帯で119番してレスキューを頼むべきでしょうが、そんな時代ではありませんでした。少し上流まで岸辺を歩かせて、浅いところに行き、一人ずつ背負って渡しました。(今思えばずい分危ないことをしたものです。)さっきの水抜きトンネルを通って道路に出ました。恵子さんをその場に残して、定光寺駅まで送ってやって、帰ってきました。気が付くとズボンはすっかりずぶ濡れでした!

 

 私たちがやらなくても誰かが助けてあげたことでしょうが、その時のことを思い出した帰路でした。思えばいま彼女たちは50~52歳くらいでしょうか。何をしているのでしょうね。ここを通って「お兄さんに川を渡してもらった。」と思い出すでしょうか。