川合治義つれづれのブログpart2

関市の市民活動家の日々

浅井長政の小谷城址

草いきれ首据え石は泰然と

 

 本城山・小野城は16世紀中葉に突然現れ、そして忽然と消え、60余の曲輪(=削平によって設けられた陣地)と2か所の石垣以外には意味あるものが眠ったままです。美濃市史編纂委員の古田憲司先生が粘り強く、熱心に小野城の実態を明かすべく研究を続けて下さっています。富野地域委員会の地域活動部会に設けた『小野城由来研究会』の活動は情報交換しながら断続的に続いています。

 

 昨日は伊吹山へ遊びに行ったのですが、オイル交換の必要に迫られて出発が遅れたので北近江の戦国武将・浅井長政小谷城跡を見学するに留まりました。それでも、小学生だった息子を連れて訪れた時にははっきりしなかった全体像や各曲輪の機能についての説明が整備されていてとても勉強になりました。

 

煙の海に浮く小谷山、伊吹山から見下ろすと、かえって形がはっきりしていました。

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北近江が煙っているのは、この小麦を刈った後の萱を焼く煙のせいでした。信長軍の襲来を左手奥の小谷城へ知らせる狼煙(のろし)ではありません。

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訪問者は、恵子さんと私の二人っきりでしたが、本丸跡まで行ってきました。一人なら当然てっぺんまで行ったでしょうが、妻を熊に食われるといけないので。 

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茶々=淀どの、秀吉の側室、なぜか秀吉の世継ぎ秀頼を生んだ!徳川秀忠の妻・家光の母。 は姉と妹が関ヶ原で対立した豊臣と徳川に嫁いだ中で、両家の仲裁に奔走?母であるお市の方柴田勝家の妻となり秀吉と戦って自刃。

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金吾丸、六角氏は琵琶湖東岸に勢いのあった有力な武将ですね。隣同士で断続的に争っていた。この時代は「昨日の友は今日の敵」と言うことが普通だったようです。

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金吾丸に続く重要な曲は『番所』です。結構な広さがあって右奥への尾根筋を守る。

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それほどきつくはない坂道ですが、悪路です。馬も草履を履かせたのでしょうか?

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ニホンカモシカ特別天然記念物です。公式には鉄砲で撃たれるはずがないので至ってのんびりしていて、人がいると近づいてきます。でも角は鋭いナイフと同じ、イノシシの牙、熊の前足爪と同じ『決め角ヤイバ』ですから危険ですよ。

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この先、一番下の曲輪が御茶屋、中ほどが御馬屋、一番上の段が桜馬場です。

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1時間前までいた伊吹山を見通せる、茂みに開いたのぞき窓。

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伝令は馬に乗って前線へ指令を伝えました。スマホのない時代、情報伝達の一番の道具

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二つの池がありました。馬はもちろん白全体の水場だったのでしょうか。

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池の段下には草に覆われた広い曲輪があります。

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主君に諫言しても命が危ない時代、敵と内通していたら一族皆殺しの時代。戦国の世の習いは現代においても『左遷』や『降格』あるいは『隔離部屋』などの『人格・誇りへの死刑』を執行する。諫言は忠誠心から来るものだが、讒言で人生を奪われてはたまらない、と言うのも組織に生きる者の心得かも。組織の論理は怖いです。三ザルが良いのです。そのようにして安倍内閣のように内部から腐食し崩壊していくのです。

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草いきれ 首据え石は 泰然と

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標高が高くなるにつれて曲輪の重要性が増していきます。

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恵子さんよりどっしりとした石碑

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桜馬場の曲輪の南端からは、北近江平野を一望できる。浅井長政たちはここでいくつもの合戦を見ながら、伝令を飛ばしていたことでしょう。『姉川の戦い』の姉川津保川で言えば上之保程度の規模の川ですが、車で10分ほどの距離でした。

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①、⑤、④という数字の辺りを北陸自動車道が通っています。

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 ①虎御前山に織田信長が陣を構えた!目と鼻の先で、どのような陣容で何をしているのかが手に取るようにわかる。戦闘準備の段階で震えあがって逃げ出す将兵も少なくなかったはず。いよいよほら貝が鳴れば、、戦国時代の戦は人海戦術・肉弾戦だったことが分かります。

 

とうとう本丸です。巨石の石垣。 

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黒金御門=鉄板が張ってある扉の門あとを潜ったつもりで桜馬場を振りかえる。

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黒金御門をくぐると広大な大広間が!建物の礎石が無造作に置かれていますが、動かすと文化財保護法違反のようです。

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さらに奥へ進んで再び黒金御門を振りかえる。城の最重要出入り口で虎口と言われる。

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要所要所にイラスト入りの解説パネルがあるのは本当にうれしいです。

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上手の中央に示された井戸跡です。馬洗い池や御茶所など、水は絶対生命線です。本城山・小野城の井戸は実際にはもっと下の方の、滝の付近の沢水を堰き止めたものだったのではないかと思います。

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井戸の脇の坂を上るといよいよ本丸です。看板を撮り忘れた!ここに殿様の居所や戦闘司令室があったのでしょうか。 

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本丸の裏手は、尾根筋が幅3、40m、長さ7、80mの深い堀切があって、本丸は独立した島のような格好です。この辺りまで侵入した羽柴秀吉は「人たらし」の本領を発揮して、浅井長政を説得。信長の妹である長政の妻「お市の方」と三人の娘を引き取って帰り、論功行賞、足軽上がりながらこの城と領地を得て一国一城の主となりました。

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長政は妻や嫡男、3人の娘をむじに逃がした後に勇猛果敢に戦いますが、やがて自刃。嫡男も捕まって磔の刑になり、長政の頭蓋骨はコップにされて酒を注がれたと言います。

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裏切り、背信。戦国の世は言うに及ばず、ヒトの世の普遍的なこの行為は「勝てば官軍」と初めから割り切っているものにとっては当然なのでしょう。最後の瞬間まで迷うものにとっては死ぬまで後味の悪い行為。

 

秀吉と光秀、小早川秀秋と石田光成、誰もが裏切りは日常茶飯事だったから勝ち残り、やがて裏切られて悲惨な最期を遂げたのではないでしょうか。主君の心変わりは裏切りとは言わず、臣下・部下のそれは裏切りで一族根絶やし、獄門・さらし首です。

 

愛知県豊田市の足助城のように金を使いきるために、時代考証は二の次にして拵えた城と違い、建物は何も残っていないが、曲輪の地面が語りかけてくるような浅井氏の小谷城址は見ごたえのある史跡でした。本城山・小野城址の今後を考えるうえで大変参考になりました。

 


帰り道、道の駅『浅井三姉妹の郷』、なんじゃこれ!いっぺんに興ざめしました。 

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